多趣味と無趣味
趣味とはどういう基準でそう呼べるのでしょうか。好きで、楽しんで、やっていることがあればそれが趣味なんだろうけど、その頻度や続けている期間は関係ないですか?
僕は、趣味はなんですかと聞かれた時いつも答えに詰まってしまいます。もちろん休みの日でも何もせずボーッと壁を見つめ過ごす廃人のような過ごし方をしてるわけではないですよ。ほとんど家にいますが。色々と好きなことはあるのですが...なぜか、しょうもないことですが、「趣味」と呼んでいいものか、考えてしまいます。僕は子供の頃から飽きっぽく、何か一つのことに熱中し続けることができませんでした。結果的にそれは今になってコンプレックスの一つになっているのですがそれは別の話。まあ色々と手を出してはろくに突き詰めず他に行ってしまう人間なのです。なので趣味と言ってもぜんぜん詳しくなかったりして、趣味と呼ぶのが申し訳なくなってしまいます。「本当にこれが好きで!時間があればこれしてます!」みたいな熱中できる趣味を持っている人が羨ましく思って生きてきました。
そんな感じで今まで色々と手を出してきたせいで、周りの人からは多趣味だよねと言われることがあります。違う...趣味になる前に他に行ってるだけ...。と思ってました。結局は無趣味なんだよな、と。ただ最近は、中途半端でも楽しければよくない?って思うようになってきました。ポジティブなのは僕的には珍しいです。そこで(?)、今楽しいと思っていることを挙げてみようと思います。
・バスケットボール
中高の6年間、部活でやっていた。大学のバスケサークルは飲みサーだったので辞めてしまったが、今でも高校の部活の人とちょくちょくやっているので一番趣味と言えるかもしれない。
・ゲーム
子供の頃から好きで、暇な時間を一番費やしているかも。ただ、自分の中では趣味というにはあまりにもタメになってないような気がして言えない。やってる時は楽しいしついついやってしまうんですが、終わってから無駄な時間を過ごしたような気がして罪悪感を感じるんですよね。
・アニメ
大学に入りサークルにも属さず友達がいなすぎて陰キャになった結果、めっちゃアニメ観るようになった。高校まではほんとに観なかったのに。逆にアニメが会話のきっかけになったりするし、最近はアニメ=オタクみたいな認識もだいぶ無くなってきてる。(見るようになるまでそう思ってた)今では日本の大切な文化だわ!って思ってる。
・本
これも最近読むようになった。故に趣味というのはおこがましいのではと思ってしまう。でも本を読むようになってから、今までの本を読まなかった人生なんてもったいなかったんだろうか!その時間があれば何冊の本を!と猛烈に後悔したので、ペースの変化はあっても読まなくなる事はない気がする。
・ギター
中学生の時に安いアコギを買った。中学生あるある。続かずインテリア。あるある。大学2年の時に、ギター好きの友人と知り合い、エレキなら続くかもと中古で安いのをまた買った。こっちは手にとったり離れたりはしつつ割と楽しめているんじゃないかと思う。全然上達しないしいつまで続くかわかりませんが...。
・カメラ
高校生の時急にすごくカメラが欲しくなって一眼レフを買った。それからは、遠出の時は必ず持っていきとっていたが、なんせ一眼レフはゴツいので持ち歩きにくく旅行要因になっていた。しかし今年の初めにそれを売りミラーレスを買った。小さい!軽い!これなら!と思ったが、そもそも極度にインドアなので外出自体が少なく全然撮ってない。写真目的で外に出るほどのめり込めてもいない...。でも撮るのは楽しくて、気に入った写真が撮れた時の感動も最高。撮ってる姿を見られる恥ずかしさに勝てないんですけどね。
いかがでしょうか。ありきたりな趣味を一通り並べていますね。どれか一つに絞って時間を費やせば、詳しくなったり上手になったりして胸を張って趣味ですと言えたであろうに...。でも僕はそれができない性格です。前までそれを悪いところだと思っていましたが、今はそれでいいと思ってます。広く浅くでも、触れていればそれが好きな人と話すきっかけくらいにはなるんじゃないかと!結局趣味なんて自分が好きでやっていればそれでいいんですけどね。飽きっぽさなんとかならんかなあ。
井伏鱒二『夜ふけと梅の花』
井伏鱒二の『山椒魚』という短編集の中にある、『夜ふけと梅の花』という作品を読んだ。ある日怪我をした酔っぱらいに絡まれ成り行きでお金を受け取ってしまった主人公が、その罪悪感から相手への認識をどんどんと歪ませていく話なのだが、人間がいかに主観で自分の周りの世界を作り上げているのかがユーモラスに描かれていて面白かった。受け取ったお金を返しそびれ貧乏故に使ってしまったことで借金のような、概念としてのお金が頭から離れなくなり苦しむ主人公の姿は面白くもあり、どこかで経験したことがあるようなリアルなシーンでもあり読み応えがある。物語は梅の花の描写に始まり、最後にもまた梅の花が描かれる。その書き方がとても素敵だった。個人的な感想でしかないけど、井伏鱒二は自然や風景を文字でとても豊かに表現するのが好き。淡々と描かれる風景に、登場人物が主張しすぎずに溶け込んでいて一つの絵のようにゆったりと楽しめる感じ。移動時間などにおすすめです!
草津旅行
先日、友人2人と草津温泉へ行ってきました。
友人の車で行く予定が、当日の朝にエンジンがかからないというトラブルで急遽電車で向かうことに。
実は大学1年の時にも、同じメンバーで草津に行っています。なぜ違う温泉に行かないのか、と言われるとなにも言えませんが、
「草津よかったよね〜」
「もっかいいくか〜」
程度のノリで決まったものです。
到着してひとまず散策していると、駐車場になんか強そうな借主が。
滞在中、持っていったカメラでいくつか写真を撮ったので、それを載せる記事にしたいと思います。
中心にある湯畑は、暗くなるとライトアップされますが、2色のパターンが交互に照らしています。ライトアップが変わるだけで表情もガラッと変わったのが面白かった。
手前に写ってるのは横切った人の残像。
湯煙に人の影が映り込んだ。
温泉から上がり休憩室で涼んでいたら、窓枠と柱に寄りかかる少年がさまになってた。
草津訪問は2度目でしたが、前回も今回も食べたものがこちら
めちゃくちゃ分厚い生姜焼きなんですけど柔らかくてジューシーで本当に美味しいです!!
草津に訪れた際はぜひお試しを。
旅の帰りはつい疲れて寝ちゃって、帰り着いてから少し後悔しがち。
帰り道まで目一杯旅として味わいたいんですけどね、、、
1泊2日でも十分リフレッシュできた良い旅でした!
ラーメンを食べに行った時の頭の中
バイト先のテレビでラーメン大食いチャレンジが流れているのをみて、ラーメンが食べたくなった。
少し早めに終わるシフトだったので、帰り道乗り換えに使う松戸駅で食べて帰ろうかな。と考えながら電車に乗り、スマホをいじっていたらすぐに松戸。改札を通る時に一瞬迷った。でもやっぱり駅を出て、お気に入りのラーメン屋に。
松戸駅東口をでて少し歩いたところにある、「雷」というお店。
店内は22時半なのに賑わっている。食券を買って店員に渡し、案内された席に着く。左にはラーメンを待つサラリーマン。右には黙々とラーメンを啜る同年代の男の子。
真後ろが出入り口なので人が出入りするたびに少し寒い。上着を脱ぐか脱がないか悩んでいると、左のサラリーマンの元にラーメンが来た。受けとるや否やすぐに箸を割り、麺を口に運ぶ。
あれ...なにこのリズム...
サラリーマンは、8ビートのテンポで小刻みに麺を啜る。ズッズッズッズッって音を鳴らし続けている。
それ進むの?啜り進むの?
気になってしょうがない。やきもきしていたら、自分のラーメンが来た。ひと時左の小刻み啜りを忘れ、食べ始める。
いわゆる二郎系ラーメンを、この時間に心置きなく食べられるのは若者の特権かも。歳を取りたくない。
二郎系は野菜がたっぷり乗っているので食べはじめが難しい、2番目に。1番は、最後まで野菜と麺をバランス良く食べ切ること。うまく食べ切れると、最後まで1番美味しく食べてやったぜという謎の達成感がある。
食べ始めの感動を味わっていると、右の男の子が食べ終わり、無愛想な「ご馳走様でした」を言って出て行く。それをきっかけに、また左で鳴っている8ビート啜りが意識に入ってくる。並んで自分は自分のペースで麺を啜る(そりゃそう)。
自分が思ってる普通は、もしかしたら普通じゃないのかもしれない。普通ってなに...?
とくだらないことを考えながら食べていたら、右の空いた席にまた同年代の男の子2人組が座った。多分陰キャ寄りの人。真横を向いて顔を見るわけにはいかないが、喋り方とか横目で見る雰囲気で大体わかる。
おそらくリズムゲームの話を早口にしながらラーメンを待っている。やっぱり。
ふと気づくと左のサラリーマンがいつのまにかビートを刻み終わっていたようで、席を立つ。
これで集中できると思った頃には、自分のラーメンも残りわずか。野菜と麺を完璧なバランスで食べ終わることができた。一息ついてスープを飲んでいると、右隣の青年が、
「今頃あいつらは、温泉旅行かぁ」
と少女マンガの脇役が言いそうなセリフを吐いた。
するとその隣の友人
「ああ、昨日話してた?まあ、どうでもいいけどw」
お前ら2日連続で会ってるのかよ
「お前にとってはどうでもいいだろうけどさ!」
「そりゃお前にとってはどうでもいいだろ!...逆にお前にとって重大なことだったら怖いわ!www」
「いやー、重大かもよ。ww」
なんだそれ、今の会話なんも面白くないだろ。
他人の会話なんて大抵クソつまらなく感じる。自分も例外じゃないのはわかっている。
ラーメンを食べ終わった後にスープを飲み始めると止まらないから気をつけないといけない。いい加減口の中が塩辛くなったり脂っこくなって、そろそろ終わろうかと水を飲むと、口の中がさっぱりしてまたスープが飲みたくなる。無限ループ。ループはコップに残る水の分までにしようと決めるといいよ。
スープを少し名残惜しく感じながら、身支度をして席を立つ。右では相変わらずつまらん会話をしながらラーメンを食べている。
店員さんに挨拶をして外に出ると、せっかく暖まった体がすぐに冷めるほど風が冷たい。満腹感に満足して、足早に駅に戻る。しょうもないこと考えながら食べちゃったなと少し後悔するけれど、いつものこと。
「時間」との付き合い方
街中をゆく他人をみているとふと、「この人は自分の知らない時間を何十年と過ごしてきたんだ」と不思議な気持ちになることがよくある。普通に考えればなにもおかしいことなんてなくて、不思議に思うことが不思議なのかもしれない。
難しく考えようとすれば時間とは出来事や物の変化を認識するための概念で、手をパーからグーにするには時間が必要で。なんてことは普段生きている中で全く必要なく考えることもない話だけれど、でも人々は常に時間を意識し時間を軸に日々をこなしている。もちろん自分もその1人で、流石に何時には起きないと。流石に何時までには寝ないと。などと時計に促されながら生活している。もしかしたら自分は、自分に付き纏う時間の相手をするのに精一杯で他人の時間に目を向ける余裕がないのかもしれない。だから他人にも時間があることを忘れていて、不意に気づかされたときに不思議な気持ちに陥るのかもしれない。
結局「時間」なんてものは個人の主観と共にあるものに過ぎなくて、万物に平等に流れる!なんて考えながら過ごしてる人は少ないんじゃないか。「時間を共有する」という言葉だってそれぞれに個別の「時間」があるという認識からできた言葉かもしれない。
だからといって、これからは時間に縛られず好きなことを好きなだけして、眠いときに寝て、目が覚めたら起きる生活をしよう!と意気込むわけでもなく、今日も定刻通りに来た電車に乗って決まったシフトのバイトに間に合うよう向かっている。時間は社会の心臓で、無理に取り除こうとすれば生き苦しくなる。
ここまでつらつらと書いてきたけれど、結局だからなんだって話で、これからも僕は「時間」の隣で生きていくだろうし、自分の知らない「時間」と共に生きてきた誰かに好奇心を持ち、その「時間」を知りたいと思える人と、同じ時間を共有したいと思うだろう。
「時間」を嫌がるわけじゃなく、ちょっとだけ意識してみると不思議に感じるなって思っただけのお話でした。
人から評価されること
僕はnoteの方で、普段考え込んでしまった時にそれを吐き出し書き残すことがあるのですが、その中の一つをこちらにも残しておきたいと思います。
この悩み(といって良いのか分かりませんが)は、集団の中で生活する以上誰もが考えることなんじゃないかと思います。
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人から評価されるのは好きですか?
もしかしたら大抵の人は好きではないかもしれませんが、そこにやる気を見出している人もいるのかも。
僕は、今まで生きてきた中で過大評価をされている、ほんとはそんな優秀じゃないのに、、と感じることがしばしばあり、最近にも立て続けに感じることがありました。そんな時いつも同時に感じるのは、大きく評価された喜びよりも、いつ本当のことがバレるのかという不安です。
僕は多分、人から自分という人間を評価されることが好きではないのだと思います。しっかりしてそう。頭がいい。そのような、事実の自分と答え合わせができない評価が。それは、人の評価なんて気にしない、媚びない、そんな立派な考えではなくむしろ逆で、事実の自分がその評価に見合っているのか。実際は足りていなくて、いつか相手を失望させてしまうのではなかろうか。そんな臆病さゆえであると思います。人の評価を気にしすぎなんだろうと。直そうにも簡単じゃなくて困ってます。
過大評価をされていると感じた時、それが本当にその通りなのか。それとも自分が自分を過小評価しているだけで、もっと自信を持つべきなのか。それがわからない時はどうすればいいのだろう?
「そう思ってもらえて嬉しい、期待に応えられるように頑張ろう」
とポジティブに捉えられるようになればいい?こんなこと悩むまでもない些細なことかもしれないけど、ふと思い浮かんだまま考え込んでしまいました。
話が少し変わりますが、僕は昔からテスト返却が割と好きでした。周りの友達は、「やだ!!どうせ悪いもん!!」とか、「それはお前ができるからだろー!笑」とか言ってたけど、そういうわけではなく、でもなぜかは説明できませんでした。確かにそれなりに真面目に取り組んでいたので、大コケする心配はあまりしませんでしたが、勉強の成績がトップクラスの優等生だったわけではないですし、頑張って勉強したけど全く自信がない科目だってありました。でもそんな科目でも、返却される時が来れば謎のワクワク感を持っていました。
今考えるとそういったテストの返却や検定の合否などの結果は、過小過大なく、事実として自分に下された評価だから好むのかもしれません。確実に実際の自分に見合った、安心して受け止められる評価。だからそれが良くて喜ぶものでも、悪くて落ち込むものでも、知ることを楽しみにする自分がいるんじゃないかと。ただの根拠のない予想ではありますが、笑
ただ、これからも社会で生きていくには人から評価され続けなくてはなりませんし、そこでいちいち考え込む余裕なんてないだろうことはわかっています。自分の自分に対する評価と人からの評価の受け止め方、扱い方を学ばなければいけないなと感じました。
自分には、軸にすることができるブレない自分への評価が必要なのかもしれません。それが曖昧なまま、自分の能力の限界を決めてしまっているのかも。そんな軸を得ることができれば人からの評価を受け止め、比較し、吸収できるような強さも得られるのかな。
自己紹介
とりあえず興味本位で作ってみたこのブログ、何について書くかも決めていませんが、ともかくまずは自己紹介させていただこうと思います。
とはいっても、ごく平凡な学生です。
名前: ハル (由来は春分の日生まれだからです)
職業: 大学生
出身: 千葉
好き: 本、写真、猫
好き(アーティスト):ヨルシカ、The 1975、MAN WITH A MISSION
趣味: カメラ、読書、ゲーム 、アニメ
ね、平凡でしょ、世の学生の趣味ランキングトップ10からつまみ出したような...いや平凡でやることないからこんなこと始めてるんです...。
こんな後からみたら黒歴史になりそうな思いつきブログ初投稿を読んでくださった本当に貴重なあなた、本当にありがとうございます!!
こんなセリフ書いたは良いけどもはや誰にも読まれないこと、それでめっちゃ恥ずかしくなること、それも覚悟してる、もちろん。↑これは読み返してるかもしれない未来の自分へ
なんらかのきっかけで知り合いが読んでいたら、何事もなかったかのように接してください恥ずかしいので
とりあえず特に絞らず書きたいことを書いていきたいと思うのでよろしくお願いします!!